解 説 |
●北アイルランド和平●
1969年から過去30年間、テロや暴力によって3000人以上の犠牲者を出してきた北アイルランド紛争は、1998年4月10日の和平合意達成以来、その和平案の是非を問う住民投票、国民投票、地方議会選挙、自治政府の成立によって、最終解決、歴史的な和解への道筋を確実に歩みはじめた。
北アイルランド紛争は、地域人口の4割を占めるカトリック系住民が「アイルランド帰属」を求めて、イギリス領土の現状を守ろうとする多数派のプロテスタント系住民と対立し続けていたイギリスとアイルランドの「おん念」を背景にした世界的な紛争だった。
最も注目されたのは、就任1年足らずで、歴代政権が果たせなかった和平合意を実現したイギリスのブレア首相やアイルランドのアハーン首相ら交渉当事者の動きと和平への構想だった。
まずはカトリック系の反英武装組織アイルランド共和軍(IRA)側との「対話路線」を打ち出し、最終局面では自ら北アイルランドに入り、各派の説得に乗り出し、交渉を円卓会議の方式で進めた。カトリック側が「北アイルランドのイギリスからの分離と南北アイルランドの統合」を唱えたのに対し、プロテスタント側が「イギリス残留」を主張して難航したものの、結果は「多数の住民が支持する限り、北アイルランドはイギリス領にとどまる」「イギリスは新たに北アイルランド地方議会を開設し、自治権を確立する」「新しい議会は国境をまたぐ形でアイルランド政府と評議会をつくり、アイルランド島全体に関する事項を協議する」「この和平案への承認を求めるため、北アイルランドでの住民投票とアイルランドでの国民投票を1998年5月に実施する」ことで合意をまとめた。
また、和平への構想は、領土や伝統的な国の形態や体裁の維持に固執せず、そこに暮す地域住民の意向を重視して、まずは共生を図るというもので、 具体的には、イギリスだけが主権を行使せず南北アイルランドの人々の代表でつくる機構が北アイルランド統治の一部分を担う。一方アイルランドは憲法を修正して、これまで掲げてきた北アイルランドの統治・領有権を持つという主張を改める。重要な事項を決めるのだから住民投票/国民投票で承認を求める、というものだ。
これを受けてアイルランド共和軍の政治組織シン・フェイン党も、臨時党大会で北アイルランド和平合意を正式承認。さらに和平案承認を「将来の道を切り開く歴史的な決定だ」とし、新設される北アイルランド議会選挙の準備態勢に入るよう呼び掛け、武装を事実上放棄する姿勢を明確に示した。これまで、紛争といえば国連が統治するか欧米諸国が軍事力にものを云わせて封じ込めるかが、その解消策のほとんどだった。また、支配権に固執した「領土意識」は、日本の北方領土問題の例をあげるまでもなく不毛な協議を永遠に続けるのが関の山だった。さらに、国の重要事項を決めるのは多数派を占める政党の意志決定が優先するのが主流だった。そうした旧態依然とした認識や意識に対して、この北アイルランド和平構想は、これからの歴史に向けて多くの潜在する可能性を示唆した。
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和平案の是非を問う北アイルランドの住民投票と、アイルランド共和国の国民投票では、住民投票の結果、和平案は賛成票約71%の多数で承認されることとなった。最終結果としてプロテスタント系住民の賛成票がどの程度確保出来るかが注目されたが、武装組織への特赦などを嫌って反対票を投じた人も多く、賛成・反対ともに半々に分かれた。カトリック系住民は約99%が賛成票を投じ、投票率は約81%で同地域での各種選挙では過去最高となった。
一方、合意に沿った憲法修正をめぐるアイルランド共和国での国民投票では、賛成が90%以上と圧倒的な支持で承認されることとなった。アイルランドが1922年に南北分離して76年、また、内戦が始まって29年。その時を経て、和平プロセスの次の焦点が、合意に基づき設置される北アイルランド地方議会(定数108)の選挙に移り、アイルランドに新たな和平の枠組みが築かれることが確実になった際、イギリス・ブレア首相は「将来に向けては、まだまだやることがあるが、この住民の意思は、北アイルランドにおいて今後、言葉による論争の場はあっても、銃や爆弾の居場所はどこにもないということをはっきり示した」と、喜びを語った。
そして、1998年6月25日から実施された和平案受け入れの是非を問う北アイルランド地方議会の選挙で、和平案を支持する陣営の勝利が確定した。プロテスタント系のアルスター統一党が28議席、カトリック系の社会民主労働党が24議席、カトリック系アイルランド共和軍(IRA)の政治組織シン・フェイン党が18議席を占めるなど、和平案支持勢力が安定多数の80議席を確保して大勢を固めた。 和平案の具体化を阻止しようとするプロテスタント強硬派の民主統一党は、20議席にとどまり、議会運営の決定を左右できる30以上の議席確保には至らなかった。
そして北アイルランド地方議会は1998年7月1日に初会合を開き、同議会選挙で第一党となったプロテスタント政党、アルスター統一党のデービッド・トリンブル党首を、議員で構成する北アイルランド行政府首相に、そしてカトリック穏健派、社会民主労働党のシーマス・マローン副党首を副首相に選出した。首相、副首相の選出には、議員108人のうち88人が投票、このうち61人が信任票を投じた。だが、プロテスタント政党内部の亀裂が続く中で27人が反対し、カトリック系の反英武装組織アイルランド共和軍(IRA)の政治組織シン・フェイン党は棄権した。そして1998年10月16日、ノルウェーのノーベル賞委員会は、ノーベル平和賞をイギリス・北アイルランドの政治家ジョン・ヒューム氏(カトリック穏健派、社会民主労働党の党首)とデービッド・トリンブル氏(プロテスタント最大政党のアルスター統一党党首)の授与を決定。二人は、対立を続けるカトリック、プロテスタント両勢力の代表で、長い交渉の末、1998年4月、30年に及ぶ北アイルランド紛争の歴史に終止符を打ち、和平合意成立にこぎつけた立役者として世界的に評価されることとなった。
イギリス連邦=イギリスの旧植民地など54カ国で構成される。アイルランドは49年に脱退している。
そして、北アイルランドのイギリスへの帰属を主張していたプロテスタント系と、アイルランド統合を求めていたカトリック系のそれぞれが、主張の対立を越えて構成する北アイルランド行政府によって、和平に向けて紛争の政治解決への道を歩きだすことになる・・・・・。
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その後/1999年しかし、北アイルランドの和平プロセスで当初、1999年2月に予定されていた「自治政府」の発足は大幅に遅れた。
北アイルランド・プロテスタント系政党アルスター統一党は7月14日、代表者会議を開き、イギリス・ブレア首相とアイルランド・アハーン首相が共同で提示していた和平調停案の受け入れを正式に拒否したことから、北アイルランド行政府の組閣が不可能になり、自治政府の発足は一旦、棚上げされた。自治政府の組閣は本来、1998年末までに完了するとされ、10閣僚を置くことはすでに決まっていた。しかし、プロテスタント勢力は、地方議会の議席数からIRAの政治組織シンフェイン党が2閣僚を出せることに対して「IRAが武装解除を始めない限り、シンフェイン党の入閣は認められない」と主張。シンフェイン党は「和平合意にはそのような取り決めはなく、武装解除開始にかかわりなく、入閣の権利がある」と反発し、組閣は延び延びになった(ちなみに和平合意では2000年5月までの武装解除を取り決めていた)。
アルスター統一党・トリンブル党首は、「組閣はIRAの武装解除が前提になるという党の方針は変わらない」と述べ、議会をボイコット。カトリック穏健派、社会民主労働党副党首のマロン行政府副首相はボイコットに抗議して辞任を表明するなど、自治政府組閣協議の中で、プロテスタントとカトリック両勢力の溝が埋まらない深刻さを、改めて浮きぼりにした。
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そして、1999年9月から始まったイギリス・北アイルランド和平合意見直し協議では、合意履行の最大の障害になっている武装解除問題で完全な合意は困難との悲観的な見方も出るなか、IRA(カトリック系武装派アイルランド共和軍)が初めて交渉の場に声明を出す動きを見せるなど、和平崩壊の回避に向けた動きが進み、カトリックおよびプロテスタント系はそれぞれ姿勢をやや軟化させ、IRAも武装解除に向かう意向ものぞかせた。そして、「武装解除が始まるまでは、シンフェイン党の行政参加を認めな い」との姿勢を崩さなかったプロテスタント最大勢力のアルスター統一党のトリンブル党首は11月16日、「IRAが武装解除のための連絡役を指名すれば、自治実現への道が開ける」と正式に声明を出し、これまでの主張を改めることも明らかにした。また一方で、シンフェイン党のアダムズ党首も同日、IRAの武装解除に向けて、「すべての力を尽くす」と約束。IRAも「和平強化に向けて、昨年の合意に基づく制度が確立されれば、武装解除の連絡のために代表を指名する」と表明し、武装解除を進める用意があることを示した。
これを受けて、アルスター統一党は11月27日、党員代表大会を開き、「IRAが武器引き渡しの仲介人を指名すれば武装解除着手とみなし、自治政府組閣に応じる」という妥協案を賛成480票、反対329票で承認。29日に北アイルランド議会が招集され、プロテスタントとカトリック双方の勢力から閣僚が指名される段取りに到達し、組閣では、 正副首相を除く10人の閣僚を指名した。
組閣は、1998年6月の自治議会選で獲得した議席数に応じ、各党が順にポストを選ぶ方式で進められた。プロテスタント最大政党のアルスター統一党、カトリック穏健派の社会民主労働党は正副首相職を含む4ポストをそれぞれ獲得し、プロテスタント、カトリックが半分ずつポストを分け合った。また、IRAの政治組織、シン・フェイン党も2人を入閣させた。
これらの動きを受けてイギリス政府は1999年11月30日、北アイルランドに対して地方自治に必要な権限をゆだねるための地方分権法案を賛成多数で可決、地域への分権を承認し権限を委譲。北アイルランド自治政府は、司法権などイギリス政府の専管事項を除き、教育や福祉、産業振興、環境対策などで独自の政策決定が可能になった。
これで、和平合意から1年半以上の曲折した歳月を経て、和平構想はようやく具体化へとコマを進めることとなり、北アイルランド自治政府は12月2日に初閣議に臨み、新たなスタートを切った。また、IR Aは同日、調停案に基づき、武器引き渡しの仲介人を指名したと発表した。
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その後/2000年だが、北アイルランドで取り組まれている和平プロセスの中で、一向にIRA(カトリック系武装派北アイルランド軍)が武装解除に向けての取り組みに着手していないことから、イギリスのマンデルソン・北アイルランド相は2月11日、「北アイルランド自治政府の機能を凍結し、イギリス政府による直接統治を復活させた」と発表、再び混迷が始まった。
和平構想が具体化へとコマを進める中で、イギリス政府やプロテスタント勢力アルスター統一党がIRAの武装解除を「2000年1月31日まで」と期限を示したものの、IRA側は「一方的すぎる」として武装解除を開始せず、「IRAは和平プロセスに完全に関与している。IRAの脅威は存在しない」とする声明を発表するにとどまり、足踏み状態が続いていた。
この状態に対してマンデルソン北アイルランド相は2月初旬のイギリス議会で、「今までいかなる武器も引き渡されていない」と武装解除問題で前進がないことを公式に認めたうえで「場合によれば、自治政府の機能を停止させてイギリス政府が引き継ぎ、直接統治を復活させる」との考えを示していた。イギリス政府による直接統治の復活が発表される前に、IRAは、「自治政府の存続が武装解除交渉の前提条件だ」としたうえで「武器を使用不能にするプロセスへの着手の用意がある」ことを示したが、意思確認が行なわれるだけで依然として武器の引き渡しが実施されないことから、北アイルランド相は、「IRAの最近の動きには歓迎すべき点があるが十分ではない」として、自治政府の機能凍結を発表。IRAに対して、一日も早く武器放棄を始めるよう促した。
また、アルスター統一党も「IRAが武装解除の方法、日程を示さない限り、シン・フェイン党との連立政権には復帰しない」との方針を表明。これに対してシン・フェイン党のアダムズ党首は「IRAが示した武器放棄への包括的な取り組み姿勢は無視され、イギリス政府はプロテスタント側に屈服した」と、この処置を批判。2月15日、IRAは、「武装解除の協議を打ち切る」と声明を出し、協議の場からの引きあげを宣言。和平合意では2000年5月までの武装解除を取り決めているが、一日でも早く武器放棄の実現を確保したいイギリス政府の「賭け」にも似た自治政府の機能凍結の処置は、思惑とは逆にIRA側の態度硬化を呼び起こすことになり、和平プロセスは、危機的状況を迎えた。
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イギリスのブレア首相は4月20日、2000年2月から自治政府機能が凍結されたままの状態が続き、危機的な状況にある北アイルランド和平プロセスの解決を図り、アイルランドのアハーン首相と会談。引き続き和平交渉促進に向けての側面支援を要請するなど、和平プロセスの修復に動いた。
また、対立するプロテスタント系、カトリック系双方に対しても、「和平合意は、なお前進しつつある」と積極的なアピールを行ない、両首相は5月5日、「IRAが武装解除を明確に誓約する」「信頼醸成措置として武器の保管場所を第三者に定期的に査察させる」ことなどを条件に「IRAの武装解除期限を5月22日から2001年6月まで延期する」としたうえで「北アイルランド自治政府を5月22日に復活させる」との案を提示した。これを受けてIRAは、「検証可能な方法で武器を使用不能にするプロセスに着手する」との声明を発表。IRA側が武器使用停止のためにロケット砲、自動小銃、プラスチック爆弾などを保有する自らの武器庫を封印、それを武器庫査察委員が査察を通じて確認すると共に、プロテスタントが9割を占める警察組織の改革や北アイルランドからのイギリス軍撤退などを条件に、将来の武装解除につなげるという段取りを明確に打ち出した。
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このIRAの表明を受けて、自治政府から離脱していたプロテスタント最大政党アルスター統一党(UUP)は5月27日、自治政府への復帰を決定。そしてイギリス政府は5月29日、北アイルランドの自治政府に自治権を移譲した。
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これを受けてアルスター統一党(UUP)のトリンブル党首は、「今あるチャンスを最大限に活用するよう手を尽くしてきたが、これからも同じ努力を続ける。もう後戻りすることはないだろう」と、今後の展望を示し、自治政府の首相に復帰して和平への取り組みを続ける決意を表明すると共に武装解除が実行されなければ辞任することも宣言。カトリック、プロテスタント両勢力の対立が続く北アイルランドは、再び和平実現に向けて新しい一歩を踏み出した。
そして6月26日、IRAの武装解除に関する武器庫の初査察が行なわれ、査察後にフィンランドのアハティサーリ前大統領とアフリカ民族会議(南ア)のラマポーザ前事務局長は「武装解除のプロセスは確実に行なわれている。廃棄された武器や爆弾が安全に保管されていることを検証し、IRAが武器を再使用しないことを確認した」との声明を発表。
この査察結果を受けて、イギリスのブレア首相と北アイルランド自治政府のマンデルソン事務総長は「IRAは武装解除に応じるという約束を守った。今回の査察結果はIRAが和平進展に前向きな姿勢を示している現われであり、信頼できるものだ」と、今回の査察受け入れを賞賛。IRAの武器庫の初査察とその結果は、和平プロセスの進展に大きく貢献する一歩となった。▼
その後/2001年しかし、それから1年、武装解除期限の6月30日を迎えたものの、IRAは、プロテスタントが9割を占める警察組織の改革や北アイルランドからのイギリス軍撤退などが進まないことなどを理由に、武器の廃棄や引き渡しを再び拒絶。イギリスとアイルランド両政府が2000年5月に設定した武装解除の履行期限は宙に浮いた形となり、履行が実行されなければ辞任することを宣言していたトリンブル自治政府首相が、7月1日に辞任。和平へのプロセスは又しても停滞ムードに突入した。
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その後、10月22日にシン・フェイン党のアダムス党首が「和平プロセスの崩壊を防ぐため」としてIRAに対し、「武装解除問題で抜本的な対応をするよう求めた」との声明を発表。IRAも翌日、「保有する武器の一部を廃棄する」とした武装解除開始の意思表明を行なった。
これを受けてイギリス政府も、北アイルランド内のイギリス軍監視施設4カ所の撤去作業を開始、イギリスのリード北アイルランド相は10月24日の議会で「北アイルランドにある駐屯地2カ所と監視施設1カ所の撤去にも着手する」と述べた。
これにより、和平合意後の最大の難題だったIRAの非武装化および警察組織の改革や北アイルランドからのイギリス軍撤退問題が、具体化に向けて、再び動きだした。
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IRAが武装解除を始めたのを受けて首相に再度就く意思を表明したアルスター統一党(UUP)のトリンブル党首だが、11月2日に行なわれた北アイルランド議会(定数108)での、自治政府首相の選任投票では、投票全体では70%を上回る支持を集めたものの、トリンブル党首自らが属するプロテスタント陣営での得票が賛成29、反対30と、賛成が過半数にわずかながらおよばず落選した。
自治政府の選出には、議会のそれぞれ(プロテスタントとカトリック)の陣営から個々に過半数の支持を得なければ選出されない規定があるため、北アイルランド議会での首相選出は不成立に終わった。▼
2002年
自治がたびたび中断するなかイギリスのブレア首相は「IRAが完全な武装放棄に応じない」として自治を凍結、イギリス政府の直轄統治が復活した。
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自治復活への展望が不透明なまま
2003年自治政府の復活を目指して議会選挙が5月29日に予定されたものの、5月1日、ブレア首相は再び「IRAが未だに完全な武装放棄を拒んでいる」「和平妨害活動を一切行なわないとするIRAの声明も具体性に欠ける」として、議会選挙を秋まで延期すると発表した。
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IRAは2003年10月21日、武装解除を実施したとする声明を出した。シン・フェイン党のアダムズ党首も、一切の武装闘争に反対する考えを強調した。また、イギリス政府は、北アイルランド自治政府の議会選挙を11月26日に実施すると発表。2002年10月以来停止された自治政府が、再び復活する見通しが出てきた。
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そして2003年11月26日投票された北アイルランドの自治議会選挙(定数108)は開票で、プロテスタント強硬派の民主統一党(DUP)が、これまで第一党だったプロテスタント穏健派のアルスター統一党(UUP)より3議席まさり、第一党の地位(議会運営の決定を左右できる30議席)を確保した。カトリック系のアイルランド共和軍(IRA)政治組織のシン・フェイン党は24議席と躍進した。カトリック穏健派の社会民主労働党(SDLP)は18議席に減った。
IRAが選挙前に大規模な武器放棄に踏み切ったことがシンフェイン党の躍進につながったが、これが逆に気にいらないプロテスタント強硬派DUPのペイズリー党首などは「今後も一切、シンフェイン党とは協議・協調しない」と反目姿勢を示し、自治政府早期再建は望み薄になった。イギリスのブレア首相とアイルランドのアハーン首相は、自治議会と政府を立ち上げるために民主統一党やアルスター統一党、社会民主労働党およびシン・フェイン党に協力を促したが、不発に終わった。
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政治的行き詰まりだけが深刻になるなか
2005こう着状態のままいたずらに歳月が経過し、政治的行き詰まりだけが深刻になるなか、IRAは2005年2月2日、包括和平合意の枠組みにはとどまるとしながらも、イギリス政府などとの交渉で表明していた完全武装解除の提案を撤回するとの声明を発表した。
これにより北アイルランド和平は再び暗礁に乗り上げた。▼
IRAは2005年7月28日、「午後4時(日本時間29日午前零時)をもって、武器の放棄と武装闘争の終結をメンバーに命じた」との武装闘争放棄声明を出した。
IRAの宣言で、北アイルランド和平は再び進展する可能性が出てきたが、あくまでもIRAに解散要求を突きつけるプロテスタント勢力が、この武装闘争放棄声明を受けてどのような対応姿勢を示すかが注目された。▼
自治政府機能が停止され、イギリス政府が直轄統治を復活した原因となった事件に、イギリス警察やスパイ組織がかかわっていた疑いが浮上した。
自治政府庁舎で「テロ利用可能な」公文書を不正入手したとして逮捕されたIRA関係者が「警察当局が仕組んだもので、作り話だった」と主張すると共に「1980年代からイギリスのスパイだった」ことを声明で暴露した。
2006
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IRAが武装闘争を放棄したにも関わらず反目姿勢を示し続けるプロテスタント系であったが、内外から和平努力への圧力が高まり、プロテスタント系の武装組織に対する批判も強まっていった。
そして2007年
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シン・フェイン党と民主統一党は3月、初の公式党首会談を実施、自治再開に合意した。
それを受けてプロテスタント系の武装組織アルスター義勇軍(UVF)も武装解除、5月3日に「武装闘争を放棄する」ことを宣言した。自治議会と政府を立ち上げるために民主統一党やアルスター統一党、社会民主労働党およびシン・フェイン党は、連立を組むことに合意。5月8日、各党は自治政府の閣僚割り当てを実施し、民主統一党のペイズリー党首が首相に、シン・フェイン党のマクギネス副党首が副首相に就任、自治再開が正式に宣言された。
1998年4月10日の和平合意達成以来、あまりにも長きにわたり紆余曲折を続けた北アイルランドは、9年という年月を経て、やっと正式に自治政府の成立をみた。
退陣するイギリスのブレア首相にとっては、北アイルランド和平に自らが積極的に尽力してきたこともあり、極めて喜ばしいはなむけとなった。
しかし、北アイルランド和平への貢献よりもむしろ、ブレア首相に対する評価は、イラク問題でブッシュ米政権への「盲目的支持」を続けたことから急降下し、周知の通り、大きな悲劇を産み出した元凶のひとりとして歴史的に汚名を刻むことにもなった。【2007.5.9 了】
【和平プロセス終結とその後】
●北アイルランドでは2010年4月、1998年の包括和平合意以来の和平プロセスで最後の焦点だった司法・警察権が英政府から自治政府に移譲されたことで、地元当局が38年ぶりに治安権限を回復、和平プロセスが事実上終結した。
●2007年の自治政府復活後初めて実施された2011年5月5日投票の議会選挙は、プロテスタント系の民主統一党とカトリック系のシン・フェイン党がそれぞれ支持された形で、獲得議席を伸ばした。民主統一党が38議席、シン・フェイン党が29議席を獲得した。定数は108議席。これにより自治政府は、プロテスタント系の民主統一党とカトリック系のシン・フェイン党による体制が継続することとなった。
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