●つれづれ・其の一「う〜ん???複雑な心境だ」●
某月某日、某所に取材に出向いた。取材というよりむしろ、これから取材を進めていく際の参考にと、ブラリと覗いてみた、と言った方が適切だろう。いわば、取材のための取材だろうか。
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そこは、結構頑張っている農業集団で、代表者は自分の農業の姿やこれまでの気付きを、しっかりした文体で表現したひとつの書籍も出している。読めば読むほど、その実直さや気付きに「う〜む」と同感する。が、何か、その行間から漂う、姿なき何かに釈然としないものも感じる。だから、その釈然としないものを払拭したいがためもあって、お邪魔してみた。
道路に面した分かり易い場所に、「自然農法」をうたった看板やノボリがあり「頑張ってる」雰囲気が伝わってくる。店も設置してあり、自然食品店並とまではいかないまでも、ミニ自然食品店の店売スタイルで、必要最低限のアイテムは揃っている。勿論、自分の所で栽培した野菜などの農産物も陳列販売している。その隣には、自家製農産物を使って料理したものを提供する営業用食堂もある。そのまた隣には、集荷&出荷場もあり、数台のトラックが停まっている。
この農場で働く人たちは20人程度。みんな、代表者が著した本に感銘して、いわば入植した。その日は横なぐりの雨。にもかかわらず、数人が黒い雨カッパを着用して畑で作業をしている。「頑張るなぁ〜、偉い」と、しみじみ思う。また、食堂では一人の女性が、厨房に入ってカタコトと料理に精を出している。「穏やかでいいなぁ〜、立派だ」と思う。
ちょうど昼どきだったので、その食堂で昼食をとることにした。メニューは、玄米中心のシンプルなものだ。「おお、こだわってますな」と、感服する。あまり玄米は好まないが、嫌でもないので注文した。
出されたものを口に入れる。「うん?」。各地で玄米や採れたてのものを食べる機会は幸いなことに多い。よって、自然と素材そのものの味を知る訓練はされている。
「米が、あまりうまくない」と感じたものだから、「この米もここでつくっているのですか?」と、その女性に尋ねた。「はいそうです」と明確な答え。「あとで田んぼを見たいので、場所を教えてください」と言うと、「田んぼは、借りている所が多いし、転々と場所が変わるので私には、どこに田んぼがあるのか、よくわからない」との返事。なるほど合点。転々と移動すれば、味覚向上までは至らない。「大変だなぁ〜」と、思う。いろいろ大変な状況で、やり通す、やり続けるのは、本当に骨のおれる事だ。ならば詳しい人に会って、話を伺いたくなるのが職業病の性(さが)。「どなたか、ここの農場について詳しく話を伺える方はいらっしゃいませんでしょうか」と問うと、「お店の奥に事務所がありますので、そこで」とのこと。
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事務所をのぞくと一人の男性が、農業とは無縁のようなイデタチで、ハイカラにいらっしゃる。「あの〜、急で申し訳ないのですが、ここの農場について、もしお時間がありましたら、で結構なのですが、少し話を伺いたいのですが、代表の方は?」と、控え目に声を発すると、「父はコウエンに行っております」との返事。「あっ、息子さんですか。何時ころお戻りになりましょうか、お父さまは」の問いに、「今日は戻りませんし、最近はあまりおりませんが」と、言葉が戻ってくる。(雨の日にコウエンに行く変わり者は、何か別の熟慮することがあって、家にも寄り付かずに、どこかにこもっていらっしゃるのか)と思う。
でも今、コウエンにいる事が分かっているのだから、多分暇であろうし今日は雨。さほど邪魔にはなるまい、と思って「じゃ、そのコウエンを覗いてみますので、場所を教えていただけますか」と要望してみた。「はぁ〜、でもここから遠くて間に合いませんよ、コウエン先は」。「・・・?!あっ、公園、パークじゃなくて、講演ですか、ワハハハハ」
言葉の勘違いは、私の最も得意とするところだ。照れる。照れる私には無関係のように「父は大変忙しく、講演が続いておりますので、お会いする事はできません」と、誇らしく言う。
非科学的だし、非理論的で、説明できないが、こんな瞬間に「ムっ」とくる。
上等。講演続きも結構。しかし、農業者が土から離れて演壇にばかり立つようになると、段々と見当はずれの人間になっていくケースが多い。「それを[講演百姓]とか[舌耕百姓]と呼ぶ」と言った人もいるくらいだ。
ちなみに、私たちのように、農業現場を歩き廻って本にしたり、記事を書いたりする者を「口だけ農民」という。そんな思いが一瞬よぎる。「それに、入植した者が雨の中で作業している時に、ハイカラな格好でおぼっちゃんをやっているアンタは、一体何なんだ」と、言いたくもなる。だが、しかし、そうした感情的な非科学的な非理論的な言葉は、野蛮だ。よって「あ、お忙しいんですね、それは失礼なお願いをしまして申し訳ありませんでした」と、シラケタ言葉に変換して発声することになる。すると「ここの取組はビデオでも見ることができます」と、逆にアツカマシクたたみ込まれ、販売促進ビデオを購入するはめになってしまった。
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モヤモヤした気持ちを抱えながら帰路に着き、日を改めてビデオを見た。画面の向こうで自分の農場の話や論を展開するのは、講演に忙しい代表者である。内容はごもっとものお言葉ばかりだ。だが、ちょっと変。「食の陰・陽」や「宇宙の法則」を朗々と言うのだが、殆どが、先人が唱えた理論。それを、さもご自分が農業を続けていく内に編み出したもの、といわんかのように説く。かつ、殆どの理論のいいトコ取りと表面的なものの羅列。
「おいおい、いいトコ取りのニギリめし状態じゃないか、コレハ」と、思わず爆笑してしまった。
これが、書籍の行間から漂う、何か釈然としないものの、ひとつの要因だったのかも知れない、と一瞬思う。そして、また感情的な非科学的な非理論的な気持ちがウズキ、「コノおっさんは、ちょっとヤバイ。教祖になりたがってる」と、明確に言葉を発する。と、他のスタッフが、「アンタはいつもそう、本人に会ってないし、ちょっと寄ってみただけで、何でそこまで言えるの。それがアンタのどうしようもない欠点」と、総スカンをくう。
う〜っむっ、ソウカモシレナイし、ソウデナイカモシレナイ。「でも、絶対に変だ」と、総スカンに逆行して再度、言葉を発する。
・・・・・・。そして幾日かが経過したある日。とある若者が来る。「××さんを知ってます?」と、ある会話が進む内に「変だ」と断定したおっさんの名前が出る。
「うむ、まだ会ったことはないが、その人の存在は知ってるし、農場も見てきた」と言うと、「実は、その人、×月×日、東京に直下型の大地震が起こる、というような文書を、確信に満ちて、縁あって知り合った人たちに送付して、警報を出したんです」との事。
「なぬ、それって昨日じゃないか、×月×日は昨日」という言葉と共に、「あっちゃー」と、思わず叫んでしまった。
他のスタッフの表情も冴えない。当然私も、とっさには「それみた事か、俺の見方は正しかったろう」「ついに、そこまで言ってしまうほど、そこまでやってしまうほどの、見当ちがいのおっさんになってしまったか」なんて事は、口にする気になれない。
「あっちゃ〜、・・・。」である。▼
横なぐりの雨の中、畑で黙々と作業を続けていた人たちの姿が浮かぶ。厨房でカタコトと料理をしていた人の姿も浮かぶ。彼ら、彼女らは、「大地震の警告」の発送作業を、代表者に指示されて黙々とやったのだろうか?「こうした行為は誤解を招く。本筋から外れている」「やめましょう」と進言した人もいたかも知れない。
しかし、講演百姓あるいは舌耕百姓に浸りきった人は、行く先々で「先生扱い」されるので、「自分は正しい」「私は偉大だ」と、ついつい勘違いしてしまう。それだけならまだしも、熱狂的なフアンができると、自分を見失い、異論や異議を唱える者を一喝するようにもなる。「宇宙の法則」に逆行した「人間さまの我欲」に支配され始めている自らの姿にも気付かなくなる。そして、教祖志向が目覚めて「カルト百姓」になっていく。
そして、教祖的になりたがる潜在性は、なぜか「予言」めいた事を言いたくなるようだ。
それはそうだ。もし、そんな事がビッタシ起こったら、彼の望む教祖的立場は不動のものになる。しかも[講演百姓]や[舌耕百姓]からランクも上がり、「カルト百姓」は、一種の神としてアガメたてまつられるようにもなろう。しかし、雨の中、カッパを着て農作業を黙々とすすめる人たちは、決しておっさんが神としてアガメられることを望んではいないだろう。むしろ、気さくなおっさんの方がいいはずだ。
[講演百姓]や[舌耕百姓]、はたまた「カルト百姓」の行き着く先は、どこか哀しい。(1998.5/2)