高度経済成長期の農政 近代化を疾走-1960年代の頃
●国家の命題は「経済成長」/国家丸抱えの誘導政策が開始された
講和条約の発効、国際通貨基金や世界銀行への加盟、MSA協定調印、ガット加盟と、アメリカに支えられることを唯一の頼りとして敗戦処理を進めながら精力的に国際社会に復帰することを目指した日本は、1960(昭和35)年、「もはや戦後ではない」と表明した『経済白書』を出し、混乱期からの脱出完了宣言をする。
政府は、経済の自立と成長を至上のものと位置付けて「経済自立五カ年計画」「所得倍増計画」「全国総合開発計画」「新都市計画」「経済社会発展計画」と、文字通り目白押しの計画を次々と打ち出していった。そして、実質の経済成長率は直ちに10%の大台に乗り、GNP(国民総生産額)がアメリカにつぐ世界第二位の規模にまで達していった。
この間、新幹線、高速道路、東京オリンピック、万国博覧会と大型プロジェクトも続々と誕生。日本全体が、発展という興奮の中で経済最優先の国家計画に完全に組み込まれ、国民は好むと好まざるとにかかわらず、「政・官」主導の計画経済管理路線に「財」や「特殊法人および団体組織」が相乗りして癒着する、というシステムを認知するようになっていく。
そんなシステムの中にある農政も、1961(昭和36)年、国家計画の命題でもある所得倍増計画の下で、これからの農業に関する目標を示した『農業基本法』を制定。その政策目標を、農業と工業間の生産性格差や所得格差の是正に置き、進める方向を、近代化する産業構造に農業も追随して生産効率を上げるところに置いた。
そして農業を近代化して労働生産性を上げることが農業所得を伸ばすことにつながり、それが結果として農家の自立を促すことになると理屈付けた。
●「農業も工業である」と位置付ける/農業基本法農政で農業生産体系の画一化路線が敷かれていった
そこでは大きく分けて三つの具体的方策が用意された。一つ目は生産品目の拡大、二つ目は生産基盤そのものの整備、三つ目は農業経営だけでやっていける農家の育成だった。
生産品目の拡大としては、経済成長に伴って国民の食生活の内容が変化し、高級化も進むことから、それに対応して、果樹・畜産・酪農・各種野菜などを手がけ、より高級品に重点を置いた生産を広げるべきだと考えた。
そして方法としては、都道府県や市町村ごとにその得意分野を選定して導入を決め、分野別での地域専業路線が最良だとされた。果樹なら果樹一本槍の地域、酪農なら酪農一本槍の地域、各種野菜なら各種野菜一本槍の地域、畜産なら畜産一本槍の地域、という具合にである。
それが日本全体で見れば生産品目の拡大になるし、農業の基本、適地適作に通じることだとされた。
生産基盤そのものの整備としては、経済成長に伴って社会そのものが効率的な生活環境を求めることから、農業をする環境も整備して近代化する必要があると考えた。
そして方法としては、全国の農業地域で灌漑や排水路の整備、圃場の拡大を含む区画整理・整備や農道の舗装など、農業の構造改善をする上でも、農業土木工事を遂行することが最良だとされた。そして、水田を中心に一区画30aに拡大、農道も5m以上に拡幅整備して、機械化や大型化を進め易くして、高能率化した農業の姿を実現させるとした。
農業経営だけでやっていける農家の育成としては、農家一戸の耕地面積(当時平均0・8ha)では規模が小さいので、これを拡大(2・4haを目安)して整備し、規模拡大によるスケールメリット追求型の農業が必要だと考えた。
そして方法としては、生産基盤整備とセットで農地の圃場整備をしながら個々の農家をふるいにかけて三分の二の農家に離農を促し、農地の集団化や協業方式を含めて規模拡大できる農家だけを残すことが良いとされた。
そして、これらの3本柱を支柱にして、1962(昭和37)年、「農業経営の規模拡大、農地の集団化、機械化、農地保有の合理化などによる農業の近代化」を目指した『農業構造改善促進対策事業』が本格化、農業政策の金看板「機械化一貫体系」が大きく掲げられていくと同時に、これらの施策を実施していくために、数限りない補助事業や助成事業を金融制度と絡めてセットにして誘導するという、言い替えれば「目の前に補助金というカネをぶらさげて食いつかせて従わせる」という今日に至る農政の施策パターンの原型をつくりあげていった。
●一元化した価値観で誘導/農政&関係省庁が農業現場を管理・誘導する時代が始まった
生産基盤整備と機械化等で農業労働は大幅に軽減された。それは、政府の意図する二つの要件を満たすに、ほぼ順当な滑り出しとなっていった。
その一つは「より大きいことがいいことだ」とする考え方の浸透と「農業生産は設備投資で」とする装置化への取り組みという流れで、もう一つは、省力化で余った農業労働力を工業労働力に吸収するというものだ。
もともと政府は、農業重視の政策は取っていなかった。それは1963(昭和38)年の『国民所得倍増計画中間検討報告』にも見て取れる。
これによると、10年後の1973年の目標を鉱工業生産の伸び432%に対して農業生産の伸びを144%にあらかじめ設定。計画経済の枠組みの中でも鉱工業と農業の生産性水準は、初めから大きく開くように計画されていたのだった。そして農業そのものは、むしろ工業製品としての機械や設備などを売り込んだり、基盤整備という名目で農業土木工事をして公共土木事業の拡大に結び付ける格好の消費市場になっていった。
その結果として農業地帯には、構造改善事業を名目に多額の資金を投入したカントリーエレベーターを代表とするライスセンター、大型ハウス、大規模選果場、大規模畜産施設、大型酪農施設など、いわゆる箱物がどんどんできていき、農業の工業化が、高度経済成長路線上で一気に推し進められていった。
そしてこれらは、米の増産や野菜の早期化、長期化、周年化を促し、価格の安定した量産タマゴや食肉、乳製品などの原料生産も可能にした。
また、装置化で余った労働力や規模拡大から外れた労働力は、鉱工業への労働力に移行し、さらに1971(昭和46)年の『農村地域工業導入促進法』で農地までもが工業用地に移行していき、国家計画が意図する「鉱工業の生産性の伸び」にも大きく貢献していった。
●農業者が一番の消費者/農政誘導下で奇妙な形に歪み始める農業現場
農業現場では、農政の意図どうりに畜産・酪農・園芸などの拡大が進んでいき、どの部門でも、機械化・装置化・大型化・施設化・効率化には拍車がかかっていった。
そして、機械所有は20倍、石油燃料の消費量は30倍、飼料用穀物の輸入量は20倍、農薬の使用量は40倍と膨れ上がっていき、農業現場そのものが、石油関連業界や商社、機具・設備メーカー、そして取扱窓口をほぼ独占、農政に足並みを合わせる農協の大規模な商業活動に大きく貢献していく、いわゆる「得意先」になっていった。
その反面、農家は、機械化や設備化の推進で購入負担が増し、経済的に圧迫されて「機械化貧乏」という状況に悲鳴をあげた。そして、借金を抱えて機械化・設備化して生産性を高め、家計のやりくりに必死になって息子や娘たちを高学歴社会や企業社会に送り出すと、農家は、ただひたすら高齢化の一途を辿っていくようになる。
●失策続き/そして、農業政策の矛盾が鮮明に見え始める時がきた
生産品目の地域別拡大が、作目の単一単作化に大きくシフトされていくと、稲作部門でも、その傾向が顕著になっていった。
政策としは、「稲作以外の生産品目の単作化」がもくろまれていたのだが、「逆ザヤ」という米価算定方式(政府は生産者から米を高く買って、消費者に安く売る方式をとった)では、稲作が最も条件的に安定、有利になっていることから、稲作を拡大選択する農家や地域が多く見られるようになっていった。
さらに、国家計画の意図どうり工場の地方進出・分散が進み、道路網の整備やモータリゼーションが浸透していくようになると、農家自らも他産業への在宅通勤が可能になり、農政の薦める「小規模農家の離農」いわば「挙家離村」の必要もなくなり、どこかに勤務する傍ら自分の農地で時間的に拘束されることが比較的少ない稲作をやっていく、いわゆる兼業農家が増えていくようになっていった。
そして、農政がぶちあげた「農業経営だけでやっていける農家の育成」、つまりは「農業だけで他産業並の所得確保を実現する」ことを、農業現場では皮肉にも、農家自らが兼業化して自分たちの工夫で他産業との所得格差の是正を実現させていくのだった。
一方、農政の方針にそって規模拡大した畜産部門は、設備投資に失敗して破産するところが続発。
酪農部門では乳量の生産過剰が乳価の低下を呼んで酪農そのものが成立しなくなり、果樹部門もまた、作付拡大による過剰生産で所得の伸びも頭打ちし、農業経営だけでやっていける農家は、ほんの一握りの出現にとどまるのだった。
農政が意図する以上に稲作の単作化が進むと、米は生産過剰気味になり、米の生産量がグングン伸びていく一方で、日本人食生活の変化が一気に米消費の減少に拍車をかけていく。そして、「逆ザヤ」という米価負担は過剰米でさらに増していき、米在庫過多の中で食管会計の赤字が始まる。
それを抑止するために、「他産業との所得均衡を図る米価算定方式」を放棄して「価格や数量は生産者側と流通側の双方が決定する」という自主流通米制度の導入と、規模拡大の考えとは矛盾する方向の「米の生産調整」いわゆる「減反政策」を取っていく。
この減反政策は1969(昭和44)年から開始されるが、生産調整に対する補助金で財政支出して、転作誘導の奨励金でまた支出と、「目の前に補助金というカネをぶら下げて食いつかせて従わせる」という悪癖に天罰が下ったかのように支出が続き、食管会計赤字地獄を農政自らが演出していくことになる。そしてさらに、思うように進まない減反に苛立つあまりに、収穫を待たずに稲を刈り取らせるという、最も愚かしい「青刈り」という行為を、農政機関および農協が、農業者に対して強制していくのだった。
1996年小社刊行の『農の方位を探る』から抜粋/転載厳禁
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