カウンセリングと連句
●その手がかりは芭蕉の蕉風俳諧にあった● 芭蕉の「蕉風俳諧」が潜在させているものについて、「蕉風俳諧はまさしく、日本人の手による日本人のカウンセリングだ」と言ったのは、日本においてカウンセリングというものを概念化し、普及・定着させた友田不二男(日本カウンセリングセンター元理事長)という人です。 友田氏は、西洋、特にカール・ロージャースに学びながらも、カウンセラーとしての臨床経験を蓄積するに連れて「東洋思想」へと傾斜していきます。そして、老子・荘子の研究から、やがては「芭蕉の跡を辿る」成り行きとなり、ついには俳諧というものに行き当たります。 「行き当たった時には、ほんとうに驚きもしましたしアキレもしたものでした。まったく、まったく、不勉強に打ち過ぎたものでした。カウンセリングということを概念化し、認知し理解して体験学習なるものを重視・力説してまいりましたが、用語こそ違え、この種のことは実は蕉風俳諧において三百年前に行動的に実践されていたのでした。太陽の下、新しいことなし、と申しますが、ややもすれば私どもが、新しいの古いのと、口角泡を飛ばしていることも、本質的には、温故知新の埓外に出るものではないのであります。俳諧とカウンセリングについて端的に申せば、俳諧もカウンセリングも等しくグループ・ワークであり、両者ともに言葉を道具としておりますし、就中、蕉風俳諧は、言葉を介して表明された人間の真情に焦点を合わせるものなのであります。そしてさらに蕉風俳諧にのみ限定して言えば、歌仙は三十六歩也、一歩も後に帰る心なし、は、カウンセリングのいわゆる、過去は問わない、を地でいくものですし、芭蕉のいう、誠をせめる、はそのままカウンセラーの純粋さ、に通じております。そして、捌き手の付け句は、カウンセラーのレスポンスに他ならず、具体的・行動的に、自己一致を遂行しているのであります」(昭和58年発行/日本カウンセリングセンター『匂い付け勉強会第一集』より抜粋) また『三冊子』(さんぞうし)にある芭蕉の言葉「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習え」に触れて、次のようにも述べています。 「人間は私意に駆られている限りほんとうの意味での学習はできないし、松や竹を対象物として向こうに置いている限りほんとうの意味での学習は成立しないのです。ほんとうの意味での学習は、対象もしくは対象物の中に入り込んで同一化し、そこでかすかに感じたその感じを、出来るだけ正確な言葉にするというところから展開するのです。学習の基盤もしくは出発は、考えるということではなくて、感じる、ということなのです。一語すれば、なによりも肝心なことは自然ということである、ということです。意識的とか意図的とかいうことは、少なくとも学習にとっては害にこそなれ益はありません」。 1970年代後半からカウンセリングの体験学習の世界に「俳諧(連句)」を積極的に導入して以来、今も連々と続いている「友田俳諧」の講座は、カウンセリングを志す人たちのみならず、広く一般の人にも開放されて現在に至っています。 ●連句療法● 一方、医学の現場でも連句のもつイメージ力に焦点を当てた、いわゆる「連句療法」という実践も行なわれています。 大脳生理学でいう「創造は右脳」という観点から、健常なこころや病理的なこころを問わず、句づくりのプログラムは遂行される、として、これを精神医療や臨床心理の現場で用いる医学者もいます。 また最近では、震災地における被災者のケアーをはじめ、現代社会で再起や自立を目指す人たちに対するケアーとして、連句療法が活躍しています。 事例集なども出版されていますので、詳しくはそれらを参考にされるといいでしょう。 |
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連句しませんか。 |