長きにわたり原発に否定的な見解を示してきた人たちであればあるほど、切ない気持ちに襲われ、無口になり、この惨事を哀しんでいるのかも知れない。長きにわたり原発に肯定的な見解を示してきた人たちであればあるほど、狼狽し、驚愕し、雄弁になっているのかも知れない。
そんな傾向がうかがえる。
本来は、逆の反応になりそうなものだが、今回は違っているようだ。
前者の多くは、これまで、この惨事すべてを「想定内のもの」として危機感を抱き続けていた。後者の多くは、これまで、この惨事すべてを「あり得ないもの」として安心感を抱き続けていた。しかし、立場が前者であろうが後者であろうが、起こった事態は深刻過ぎる。あまりにも切なく、悲し過ぎる話だ。避難住民たちが抱き続ける恐怖、不安、失望、怒り、を思うといたたまれなくなる。原発を誘致し、その後も容認し続けてきた地域が抱え込んだ悲劇は、無残だ。
2011.3.11に発生した巨大地震と大津波で東京電力福島原子力発電所では、原子炉の稼動は緊急停止したものの、炉心を冷やす緊急炉心冷却システム(ECCS)が動かなくなり、原子炉内の水位が低下、これにより燃料の溶融はもとより、炉心溶融(メルトダウン)の可能性も否めない極めて危険な状態に陥った。
放射性物質は外部に放出され、放射性物質の人体に対する健康被害=人体被曝=が現実問題として急浮上した。
地震災害で危惧された炉心溶融(メルトダウン)と人体被曝、土壌や水源、農産物や地下水、海水等の汚染。
これまで長きにわたり指摘され続けてきたこれらの原発の基本的な危険性に対して、国や電力会社、関係機関は常に「あり得ない」「セーフティーネットは完備している」「被曝しても健康には影響がない」と言い切ってきた。
しかし、誤魔化しようのない深刻な事実・事例として突き付けられることとなった。
あり得ないことが起こった。セーフティーネットは効いていなかった。いまもなお、原発の危機は予断を許さない状態だ。懸念材料は日増しに膨らみ、原発の危機的状況は不気味に続く。
海外からの智恵を含めた対策援助に素直に応じられなかった政府や東電の初動姿勢。それは、見方を変えて見てみると、第二次世界大戦で負けているのに「まだ勝てる」とした虚勢、あるいは「日本には優秀な才能がある」とした見栄。それが今も脈々と続いているのではないのか、とさえ思えてきたから、より哀しくなっていた。
「原子炉は大丈夫」「構造上爆発はない」。初動からこの安全神話に支配され尽されていた政府、関係機関、東電。否定的見知を排除し続け、原発推進オンリーで陣営を固めてきたどす黒い構図は、水素爆発と放射能飛散の哀しい現実を前に、嫌悪感を伴って鮮明に浮き上がった。
加えて、下請け、孫請け、ひ孫請けなどの原発被労働者に放射線管理バッジも渡さないで危険な作業を強要し続けるのは、あたかも人間魚雷「回天」か「特攻隊」に命運を賭けているかのようにも映った。
何よりも切なく悲しいのは、人間の尊厳を無視した「ボロ雑巾」的な扱いで、我々の前に突き付けられたのは、これを黙認、黙殺している現実の存在だった。
東電側が示す福島第一原発の情報は、古くからの「事故隠し」や「データ捏造」の癖が身についているかのように、常に「あとだし」や「修正」が繰り返されるばかりで、疑いが増殖し、信頼性は弾けて飛んだ。
そんな中で「想定外だ!」「未曾有の天災だ!」「他の国内原発は安全だ!」「さらに安全策を講じれば問題ない!」「むしろ失敗を教訓に、世界最高レベルの安全性に支えられた原子力を!」の文言を見聞きすればするほど、胸が詰まるように、切なく、悲しく、恐ろしくなる。
そして、ここに至るまでを検証すればするほど、なお一層、その文言が、空しく響き、哀れにもなり、懸念材料と共に不安感が増殖する。
◇2009年の審議会で、平安時代の869年に起きた貞観津波の痕跡を調査した研究者が、同原発を大津波が襲う危険性を指摘していた。しかし、東電側は、想定の引き上げに難色を示し、設計上は耐震性に余裕があると主張し、津波想定は先送りされ、地震想定も変更されなかった。
設計段階でも、起こる可能性の低いものは想定からどんどん外されていった。
「さらに安全策を講じれば問題ない!」の文言とはまったく真逆だ。
◇2007年の中部電力浜岡原発運転差し止め訴訟の静岡地裁での証人尋問では、原子力安全委員会の班目春樹委員長は、非常用発電機や制御棒など重要機器が複数同時に機能喪失することの想定について「すべてを考慮すると設計ができなくなる」と述べていた。
参院予算委員会でこれを「割り切った考えの結果が今回の事故につながった」と突かれた同委員長は「原発設計の想定が悪かった。想定について世界的に見直しがなされなければならない。原子力を推進してきた者の一人として、個人的には謝罪する気持ちはある」と述べ、陳謝した。
これとて「さらに安全策を講じれば問題ない!」の文言とはまったく真逆だ。
◇政府内に置かれた原子力安全委員会は、そもそも国策の原発を優位に進めるために出来た機関だ。委員長以下、委員は5人。いずれも常勤の特別職公務員に位置付くが、常勤といっても定例会議は週一回だけで、会合は最短で10分弱、長いもので1時間半程度にしか過ぎない。肝腎な問題を電話だけで済ますことも多い。これで約1650万円の年収(月給93万6000円とボーナス)を貪るが、それと引き換えに、好むと好まざるとにかかわらず、自らは、いわゆる「御用学者」におさまらざるを得なくなる。
◇原子力安全委員会の班目春樹委員長が福島第一原発事故で初めて会見したのは3月23日の夜だった。しかも、28日の会見では、建屋に溜まった高放射線量の汚染水処理について「知識を持ち合わせていないので、東電と原子力安全・保安院にしっかりと指導をしていただきたい」と答えて周囲を唖然とさせた。
◇さらに、経済産業省の外局として置かれる原子力安全・保安院も、保安検査や安全規制を主体にしているものの、原子力施設の設置を前提にして設けられているだけに、ブレーキの効きが甘いのが実情だ。経済産業省には、原発推進の牽引役を担う資源エネルギー庁もある。フルスロットルでアクセルを踏む役の資源エネルギー庁と効きの甘いブレーキ役の原子力安全・保安院。この二つが、同じ省に存在しているのだから、何をかいわんやである。原発を抱える福島県や新潟県の両知事はかねてから、保安院の分離を政府に求めていた。
しかし、この要求は捨て置かれた。
例え、原子力安全・保安院を経済産業省の外局から切り離すことになっても、規制を極力緩めて原発推進を前提にして存在する内閣府の原子力安全委員会に統合されるのが関の山で、独立した規制機関にはなり得ないのが日本の現実だ。
例えば、原子力安全委員会が1990年に定めた「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」の「電源喪失に対する設計上の考慮」の項目では、原発設計時に「送電線の復旧または非常用交流電源設備の復旧が期待できるので長期間にわたる全電源喪失を考慮する必要はない」と規定している。
規制とは真逆の論調と考えだ。
ゆえに、地震と津波で外部電源を喪失した福島第一原発は、非常用電源が機能しなかったため原子炉が冷却できず、核燃料の損傷や原子炉建屋の爆発が起きた。
◇2003年、名古屋高裁金沢支部が、国の「もんじゅ」安全審査について「看過しがたい過誤、欠落」があると指摘、「全面的なやり直しが必要」と断定し、「国の原子炉設置許可は無効」とする判決を出した。しかし、国は、血相を変えて最高裁に上告した。原子力安全委員会もすぐさま「改造工事を実施すれば、ナトリウム漏れによる大事故は防げる」とする見解をまとめた。そして、経済産業省原子力安全・保安院が、改造工事の詳細設計を急いで認可した。
◇原子力安全・保安院長は2010年5月、衆院経済産業委員会で「外部電源が喪失されて冷却機能が失われると炉心溶融につながることは論理的には考え得る」と答弁していた。また「電源が喪失しても数時間後には復旧させる」としていた。
しかし、今回の津波では、非常用電源が使えなくなり、冷却水で燃料を冷やす機能が喪失し、燃料の一部は溶けた。
◇2006年、国は「原発耐震設計審査指針」を改定して地震の想定規模を引き上げた。これを受け、2009年度から原発の安全研究に取り組む原子力安全基盤機構が、様々な地震被害を想定した研究を始めた。
そして、同機構は、東電福島第一原発2、3号機で使われている沸騰水型原発(出力80万キロ・ワット)は、電源が全て失われて原子炉を冷却できない状態が約3時間半続くと、原子炉圧力容器が破損し、炉心の核燃料棒も損傷、約7時間弱で格納容器も破損して燃料棒から溶け出した放射性物質が外部へ漏れる、という研究報告を2010年10月にまとめていた。
しかし、東電は報告書の内容を知りながら、電源喪失対策を検討していなかった。
他にも検証材料は数限りなくある(一例は「原発関連バックナンバー」参照のこと)。
重大で深刻な事故でも起こらない限り、表には出てこない原発が抱え込んでいる問題。国内では、TVメディアを筆頭に新聞各社等、大手報道機関は、原発問題にはさわらずにきた。しかし、今回はそうもいかない。起こった重大で深刻な事故を、連日連夜、日々刻々、様々な角度から報じざるを得なくなった。言い換えれば、重大で深刻な事故が起こったからこそ、大義名分を得て連日連夜、報じることが可能になった。とは言うものの、否定的に原発を取り上げるのは今もって御法度ではあるが。
様々な角度から報じる姿勢。それを目にするにつけ、遅きに失した感は否めない。「この期に及んで何を今更」の思いもよぎる。しかし、その事態を目の当たりにした今、国民のみならず全世界の人々が、原発問題に感心を寄せている。
日本の智恵だけでの対応には限界がある。ましてや一部の専門家の考えることは、たかが知れている。他国の智恵や力に依存しても、誰ひとり非難する者はいないほどの原発危機だ。
「自己責任」の倫理観で自国だけで対応するのは、それこそが悪しき「島国根性」でおぞましい。そこからは閉塞感しか生まれない。
核の暴走は、人智では防ぎようがない。いまだからこそ、全世界の智慧と勇気を結集し、乗り越える絶好の機会でもある。それが出来るのが人類だ、と思いたい。
これを教訓に、今後どう舵をきるのか?
どっちに転ぶにしても、「さらに安全策を講じれば問題ない!」という文言が通用するのであれば、原発は、より一層、危険な物になるに違いない。そうなると、原発問題は、さらに、切なく、悲しい話になり過ぎる。
「あり得ない」「セーフティーネットは完備している」はずの原発は、予断を許さない状態での危機が今も不気味に続いている。
【見えた 東電の本音】
福島第一原発の事故で精神的苦痛を受けたとして、東京電力に慰謝料を求める訴訟が東京簡裁に起された。
5月19日に行なわれた第1回口頭弁論で東電側は事故について「これまでの想像をはるかに超えた、巨大でとてつもない破壊力を持った地震と津波が事故の原因で、対策を講じる義務があったとまではいえない」と本音で反論した。
東京都内に住む臨床心理士が「事故により極度の不安感、恐怖感を受けた」「事故後、不安感を訴える相談者が相次いだ」として、10万円の慰謝料を求めて3月末に提訴した。
東電側は「原発の建設は法令に基づいて適切に行なわれてきた」と述べ、反省のない姿が鮮明になった。
【魔 物】
当事者でありながら他人事のような応答とぶ然とした態度で事故対応や記者会見等にのぞむ東電の経営者幹部等の誠意の無さは顕著で、思い上がったままの傲慢で横柄な東電の経営者体質を再認識することとなっている。
そんな中で、東京電力から要請されて、三井住友、みずほコーポレート、三菱東京UFJなど民間主要銀行が、約1兆9000億円の緊急融資をおこなった。原発事故で急低下する国策企業体の東電の信用力回復や事故対応のための資金調達を、国策で破綻を救済された金融機関が下支えするのである。また、財政破綻している政府も「危機対応融資」を活用して政府系金融機関を通じて東電に資金支援するのである。
民間企業と言う名の国策企業体は、民主主義という名のニッポン社会主義国家に在っては、不祥事をおこそうが経営不振に陥ろうが株価が底を突こうが、思い上がったままの傲慢で横柄な経営者体質が続こうが、経営破綻しようが、公的資金による出資を通じて救われ、やがて息を吹き返すのである。
今後は想定する額の数十倍、つまり原発事故処理全般や電力安定供給、廃炉費用、損害賠償や被曝医療対策費等々で数十兆円規模の資金が必要となるのは確実で、安全神話が崩れた原発は、国家をより一層窮地に追い込んで「国家財政の破綻」にまで誘導しかねない魔物と化した。
【魔物のしわざ】
原発事故による避難で、福島第一原発の半径30キロ圏内約5万8000人の大半が最終的に解雇や休業に追い込まれる可能性が濃厚になった。福島労働局では「原発事故が収束すれば周辺の調査が進み、爆発的に離職者が増えることは間違いない」と見込んでいる。
半径10キロ圏内の福島県大熊町で見つかった震災被害者の遺体は、その後に蓄積された放射線量が高く、収容が一時断念された。遺体表面からは全身除染が必要とされる放射線量が計測され、哀しくも搬送できない状態に陥った。圏内には他にも収容されていない遺体が多く残された。
【原発見直し】
この惨事を受けて各国では、原発見直しに転換する気運が再び出てきた。ドイツ、スイス、アメリカのみならず、今後のエネルギーを原発に求めようとしている途上国に於ても、方針の転換を迫られる可能性が濃厚になってきた。
一方この惨劇に見舞われて「クリーンなエネルギー」や「安全神話」の化けの皮が剥がれた国内では、2030年までに少なくとも14基の原発の新増設を目標に掲げたエネルギー政策が、根本から覆された。